2011年2月28日月曜日

講義録:大人の学び論 III(長岡健)

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2011年1月28日(火) 18:30〜20:00
講義名(担当者):大人の学び論Ⅲ(長岡健)
集合場所:東向島珈琲店
参加人数:1人
内容:
 都市社会学者のオルデンバーグは、都市生活を営む上で、家でも職場(学校)でもない「第三の場所」の必要性を主張しています。それは、パリのカフェや、ロンドンのバプに代表されるような、リラックスした雰囲気の中で人々がオープンな交流をもつ場を意味しています。近年、「大人の学び」における対話的コミュニケーションの重要性が認識されるに従い、学びにおけるサードプレイスの意味についての議論が展開されています。そこで、本講座では、「学びのサードプレイス」という概念を取り上げ、「大人の学び」と「場」について考えてみたいと思います。
 なお、墨東大学「大人の学び論Ⅲ」では、「大人の学び論Ⅰ・Ⅱ」に引き続き、「教員/受講者」の関係を逆転させた授業運営を行います。今回のテーマである「学びのサードプレイス」を中心としながらも、それに限定することなく、「大人の学び」に関する様々なトピックの中から、受講者が「聴きたいこと」をその場で選んでもらい、担当教員が出来る限りそれに応えていく、という授業運営を行います。そして、通常とは異なるこのような授業の経験をもとに、墨東大学での「学び」の意味を参加者全員で探ってみたいと思います。
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 今年度の墨東大学で私が担当した「大人の学び論Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ」では、授業テーマである「大人の学び」だけでなく、「教員/受講者」の関係を逆転させるという授業スタイルを強く意識してきました。特に、過去2回の講義録では、教員が事前に話す内容を決めず、受講者がその場で聴きたいトピックを出し、それに教員が応えるという「即興形式」に焦点を当ててきました。そして、その経験を振り返ることで、従来的な「大学の授業」に対する私自身のまなざしを再構成していくことにつながる、いくつかのヒントを得ることができました。
 さて、「大人の学び論Ⅲ」では、まなざしの再構成につながるどんなヒントが得られたのか。今回は、授業スタイルからではなく、授業テーマである「学びのサードプレイス」との関係から考えてみたいと思います。


 1月28日に行った「大人の学び論Ⅲ」を振り返るとき、私にとって最も大きな出来ごとは、それが「1対1」の授業だったということです。前回までの授業でも、受講者募集のサイトが立ち上がると、「もしかしたら、1対1の授業になるかもしれないなあ」という不安がよぎっていましたが、結果的には、少人数ながら複数の受講者との授業となりました。今回も、「1対1の授業になったら、従来的な大学の授業を本当の意味で脱構築することなる」などと口では言っていたものの、実際に1対1の授業を行うことになった当日は、全く初対面の受講者と2人きりで楽しく対話することができるのか、大きな不安を抱えていました。初対面であることに加え、私は受講者のことを何も知りません。年齢も、性別も、職業も知らず、その人がどのような関心から墨東大学に参加するのかも、全く見当がつきません。しかも、その日のテーマは「学びのサードプレイス」です。緊張し、ぎこちない雰囲気の中で、「自由でリラックスした雰囲気の対話を楽しむ」というサードプレイスについて講義することになっては、どう考えても様になりません。授業開始前の心境を正直に言えば、新たな出会いを楽しむような余裕は全くありませんでした。
 ただ、いざ授業が始まってみると、受講者の方ともすぐに打ち解けることができ、その日のテーマである「学びのサードプレイス」の話しに加え、「アンラーン(学習棄却)」や「越境学習(Learning through Boundary Crossing)」といったトピックについて、サードプレイス的な雰囲気の中での対話を楽しむことができました。そして、授業を終えた帰りの電車の中でふと思ったのが、「一体、始まる前に感じていた緊張感は何だったのだろう」ということです。

 改めて考えてみると、私が感じた緊張感は「ワークショップに参加する前夜」のそれに似ていたような気がします。ワークショップという場は、従来的な学校に見られる固定した関係性や制約から参加者を解き放ち、自由闊達な学びの実現を目指したものだと言えます。この点について、ワークショップは「学びのサードプレイス」と同じ方向性をもっていると見なすことができます。でも、参加者の関係性について、両者は異なる方向を向いているように思われます。
 ワークショップという場において、参加者同士は緊密な関係を構築することが求められます。たとえ初対面であっても、協働作業へのコミットや、身体的な動きを通じて、あたかも親しい間柄であるかのごとく振る舞うように仕向けられます。ある意味で、参加者同士の「プライベートな関係」を擬似的に作り出していくことに、ワークショップの魅力があることは事実でしょう。しかし一方で、見知らぬ相手と「プライベートな関係」であるかのように振る舞うことを求められるのは、強い緊張感をもたらすものです。
 それに対して、サードプレイスは「インフォーマルであると同時に、パブリックな空間」です。「パブリックな空間」には、見知らぬ人と知り合える可能性があると同時に、参加者一人ひとりが「誰と話すか/話さないか」を選ぶことのできる自由があります。仮に、サードプレイスで親しい知人を見かけたとしても、その知人とあまり会話を交わさずに振る舞うことも許される、それが「パブリックな空間」における自由な関係性ではないでしょうか。そしておそらく、このような意味での「パブリックな空間」を実現するには、参加者一人ひとりに選択の自由をもたらす「場の多様性」が必要であるように思えてきます。その場に居合わせた全員が親しい間柄になるのではなく、全く会話を交わさずに別れてしまう人が多数存在することが、ワークショップとは異なる場として、「学びのサードプレイス」を成立させる上でとても重要なことなのかもしれません。


 今回、「大人の学び論Ⅲ」で経験した1対1の授業は、見知らぬ相手と「プライベートな関係」であるかのように振る舞うことが求められる点で、ワークショップ的な「参加者の関係性」だったのだと思います。また、始まる前の緊張感をくぐり抜けると、楽しく充実した経験を味わうことができた点からも、「大人の学び論Ⅲ」はワークショップ的だったと言えるでしょう。だだし、ワークショップ的な経験を通じて得られた気づきが、サードプレイス的な参加者の関係性についてだったのはとても不思議な感じがします。「ワークショップ」と「サードプレイス」、似ているようで違った側面をもつ2つの「学びの場」について、墨東大学での対話を手がかりに、もう少し考えてみたいと思います。
(報告:長岡健)