2010年10月29日金曜日

講義録:大人の学び論 I(長岡健)

-------------
2010年10月29日(金) 18:30〜20:00
講義名(担当者):大人の学び論Ⅰ(長岡健)
集合場所:東向島珈琲店
参加人数:4人
内容:ここ数年、社会人になった後も積極的に「自分磨き」に取り組む人が増えているようです。いわゆる「朝活」や、大人のための読書会の話もしばしば耳にします。そして、墨東大学もまた、大人のための「学び場」だと言えるでしょう。ただ、ここでの学びは、私たちが長い時間をすごしてきた「学校」での学びとは違う側面があるはずです。ここで改めて「大人の学び」とは何かについて考えてみたいと思います。
以上のようなテーマについて、本講座では、「教員/受講者」の関係を逆転させた授業運営をしてみたいと思います。通常の授業では、「何を学ぶべきか」を教員が決めます。そして、その学習目標に相応しいと判断した講義内容を教員が予め用意し、その内容のみが話されます。このような関係性の中では、受講者は「聴きたいことではない話し」であったとしても、それを受け入れることが求められます。では、教員が講義内容を事前に決めず、受講者が「聴きたいこと」をその場で教員に伝え、教員ができるかぎりその希望に沿った話しをするという講義(?)を行ったとき、どのような「学びの場」が出現してくるのでしょうか。
墨東大学における「大人の学び論Ⅰ」では、「子供の学び」と「大人の学び」の違い、「仕事の中での学び」の特徴といった、「大人の学び」に関する様々なトピックの中から、受講者が「聴きたいこと」をその場で選んでもらい、担当教員が出来る限りそれに応えていく、という授業運営を行います。そして、通常とは異なるこのような授業の経験をもとに、墨東大学での「学び」の意味を参加者全員で探ってみたいと思います。
-------------
講義シラバスにも書きましたが、今回の「大人の学び論Ⅰ」では、教員があらかじめ話す内容を決めているのではなく、受講者がその場で聴きたいトピックを出し、それに教員が応えるという即興形式で進めることにしました。
ただ、このアイディアを考えついた瞬間は「どんな話しを求められるのか、ドキドキするなあ」などど、一人で盛り上がっていたものの、実際にシラバスをアップした後は、「そんなことできるかな?」と少し不安な気持ちにもなっていました。というのも、そのとき頭の中にあったのは、多くの受講者が一斉に手を上げて、私に様々なトピックを投げ掛けてくるといったイメージ(妄想?)だったからです。

さすがに、マイケル・サンデルの授業を意識していた訳ではありませんが、「教員たるもの、即興的なやりとりでうまくその場を運営していかなければならない」という意識が、私の心の中にあったことは事実です。今思えば、私の中にある、いわゆる「大学の授業」や「大学の教員」に対する凝り固まったイメージを反映していたのでしょう。


でも、実際に募集が始まると、私のイメージがどうやら違っていたことに気づきました。開講日の数日前になっても、エントリーしているのは私一人で、「もし一人もエントリーがなかったら、その場で道行く人に声を掛けて、講義を聴いてもらわないといけないかな」などと考えるようにもなっていました。最終的には、三名の方からエントリーがあり、当初の私のイメージ(妄想?)とは違ってはいましたが、今までにない不思議な体験をすることになりました。
私が東向島珈琲店に到着したとき、すでにいらしていた二名の方々とは全くの初対面でした。お互いに「大人の学び論Ⅰ」の参加であることを恐る恐る確かめ、テーブルにつきましたが、何とも微妙な雰囲気です。通常の公開セミナーであれば、講師と聴衆が初対面なのはアタリマエで、そんなことは気にせず「みなさん、こんばんは!」と講義を始めてしまいます。でも、見知らぬ三人がひとつのテーブルを囲んでいると、相手の反応が気になってしまい、通常の公開セミナーのように、私が一方的に「明るく、元気に」を演じることができません。

本当は、「大人の学び」というテーマに関心をもつ三人がカフェに集い、自由でリラックスした雰囲気の中で、楽しく対話を交わす、とシンプルに考えればよかったのでしょう。でも、そのときの私の中には、まだ「教員たるもの、しっかりと仕切れ!」というヘンな意識があったようです。「即興のやりとりを演出し、進行をコントロールしよう」という意識があったのかもしれません。そんな思いが私の頭の中をぐるぐると巡っていることに、私以外の参加者が気づいていたかどうかは不明ですが・・・。
その後、「大人の学び」についての話しをはじめると、そんな意識はどこかに行ってしまい、受講者の方々からリクエストのあった「学びのサードプレイス」、「個人にとっての学びと組織の評価の関係」、といったトピックについて楽しく対話をすることができました。そして、「即興のやりとりを演出し、進行をコントロールしよう」といった教員としての歪んだ自意識は、私の中からいつの間にか消えていったようでした。


何となくぎこちない雰囲気から始まり、徐々に「大人の学び」についての対話に引き込まれていくという体験、これが私にとっての「大人の学び論Ⅰ」についての記憶です。従来の大学のあり方を見つめ直すと言っておきながら、「教員たるもの・・・」という意識に縛られていた自分の姿勢を改めて問い直しつつ、今回の体験についてもうしばらく考えてみたいと思います。
(文・長岡健)

2010年10月28日木曜日

講義録:ちいさな編綴実習 第1回(香川)

------------
2010年10月28日(木)18:00~20:00
講義名(担当者):ちいさな編綴実習第1回(香川)
集合場所:東向島珈琲店
内容:
この講座では「書いて綴じる」つまり、「(ひとりもしくは少人数で)本をつくる」ことを見直し、実験します。
第1回は、本のたたずまいについて考えてみました。少人数でつくるリトルプレスはページが少ないことが多く、本棚に並べたり、タイトルや著者の名前といった「言葉だけの情報」で検索して選んでもらうような性格のものでは(いまのところ)ありません。共感してもらう、わくわくしてもらう、その本と一緒に過ごす時間がちょっとだけ豊かになってもらう…などを想像しながら制作し、届けかた、置く場所を考え、制作をはじめます。
また、第1回の参加者には「誰かに見せるためのノート」という課題が託されました。イギリスの美術大学で、実習で使ったスケッチブックをそのまま提出するという課題をまねて、だれかが読むかもしれない「ちいさな本」としてのノートをとる、ということに挑戦してもらいます。
参加人数:5人(新入生男子1名、教職員1名)
------------
「ちいさな編綴実習」第1回目。折りたたみ傘がひっくり返ったり水たまりに足を取られたりと、相当の荒れ模様のなか、東向島珈琲店にあつまった5人で、静かに開講しました。
いま、誰でも情報の編集ができることがいろいろなところで強調されています。でも「本」をつくるとなると少しハードルが高い気がしてしまいます。この実習では、そのハードルを少しでも低くしたい。もしかしたら表現しなくても済むかもしれないものを、ちょっとだけ大事に心を込めて「もの」としての小さな本にしてみる。そのものができたときにどんなことが起きるのか…というところまで、参加者と一緒に実験していけたらと思っています。
この実習の名前について最初に一言。本を作る、ということだけであれば「編集」でも十分なのですが、多くの人がかかわり、分業のしくみの中でつくられているいわゆる世の中の「本」というものへの尊敬や、憧れからちょっとだけ自由になって、じぶんひとりで最初から最後までものをつくり、世に送り出すことを「編綴」という古い言葉に託しました。毎回の参加者がすくなくとも1冊のちいさな本に参加できるように構成し、また、自分のちいさな一冊を編綴できるようなバーチャルな大学の、アトリエネットワークになればと思って立ち上げました。また、講師を中心に、参加者のトライアル全3回(+α)の記録が『ちいさな編綴(仮)』という一冊のちいさなガイドブックに仕立てる予定です。


第1回の参加者に託された課題は、「誰かに見せるためのノート」でした。イギリスの美術大学で、実習で使ったスケッチブックをそのまま課題として提出するという課題があったことを受けて、第1回から参加した人には、本未満の小冊子としてのノートをとる、ということに挑戦してもらいます。
5名で開催された実習第1回の多くの時間は、文具王の和田哲哉さんが提案している「ノートの三要素」を手がかりに、本のたたずまいについて考えてみました。もともとは、ノートの機能として紹介されている内容ですが、ちいさな本のかたちをまずざっくりとイメージするには、まずものとしての「かたち」をイメージしてみる…というのはどうでしょう、というお話をしました。ちなみに、その三要素と、それをちいたな本にあてはめたときにどんなことを指すか…ということは以下の通り。
  1. サイズ (1) 大きさ(面積) (2) 厚み(ページ数) (3) かたち(A5、正方形など)
  2. 紙 (1) 色 (2) 柄 (3) 素材 …など
  3. 綴じ (1) 無線綴じ (2) 有線綴じ (3) リング (4) その他(自由)

ここで大切なのは、少人数でつくるリトルプレスはページが少ないことが多く、本棚に並べてタイトルや著者の名前といった「言葉だけの情報」で選んでもらうような性格のものでは(いまのところ)ないため「背」がありません。そのために、手に取った人に「読ませる」とうよりも、その本に共感してもらう、わくわくしてもらう、その本と一緒に過ごす時間がちょっとだけ豊かになるような「かたち」が、中身と同じくらい大切になってくると思います。「たたずまい」から存在するものをつくったり、届けかた、置く場所を考えることで、その本と出会いたい人にちゃんと「見つけてもらう」…そういうものを作りたいという願いを持てる自分の企画を、2回目の実習では考えていきます。
(香川文)

2010年10月22日金曜日

講義録:キャンプ論(加藤)

----------
2010年10月22日(金)18:30〜20:00
講義名(担当者):キャンプ論(加藤)
集合場所:東向島珈琲店
内容(講義概要より):「墨東大学」は、私たちの日常生活や人間関係を“大学(大学生活)”に見立てて、地域を考える試みである。墨大生たちの活動の舞台となる「キャンパス」とは何かについて考えるとき、「カンプス(広場・平らな場所)」というおなじ語源から派生した「キャンプ」について知ることも重要だ。「キャンプ」は、(1) 人びとが集いのびのびと語り合う、(2) 現地で調達する、(3) かぎられた滞在時間を満喫する、といった側面が際立つ〈学びの場〉である。「キャンプ論」では、講義とディスカッションをつうじて、墨大生であることの意識を高め、移動型・仮設型学習のあり方について考えてみたい。
参加人数:4人(在学生男子1名, 新入生女子1名, 教員2名)
----------
さて、いよいよ墨東大学も本格的にスタートです。この日は、東向島珈琲店で「キャンプ論」が開講されました。出席者は、講義担当者をふくめて4名。とてもちいさな集まりでした。


講義題目は「キャンプ論」でしたが、「墨東大学」というプロジェクトの基本的な考え方について考えるという内容です。実際には、「こういう主旨だ」という断定的な表現ではなく、「こんな感じで考えているんだけど…」というように、アイデアを共有し、その場で整理していくようなやり方です。以下、実際に話した順番どおりではありませんが、「墨東大学」について整理してみました。

1. 問題解決から関係変革へ
まず、地域コミュニティとの連携方法を再考してみようという想い。たとえば、大学と地域が委託調査・共同研究という形式で結ばれるケースは少なくありません。地域コミュニティは、大学に対してある種の専門性や技術等に期待し、そのためのコストを研究費という形で補助します。これは“needs-driven”とも呼ぶべき方向性で、地域コミュニティを過度に“クライアント化”する可能性があります。
いっぽう、ここ5年ほどの「キャンプ」の試みからも、より互恵的な関係性にもとづく実践も可能だという想いは強くなっています。地域「資産(assets)」の価値を高めようと試みるとき、大学と地域コミュニティの双方が、自律的・互恵的に結びつくことができるはずです。たとえば教員・スタッフの職能が墨東大学で提供される際には、ボランタリーな「プロボノ」的な位置づけで実現されることが望ましいでしょう(実際、すでにそうなっていますが)。つまり、〈大学〉というメタファーで構成される「墨東大学」における主たる活動はコミュニケーションなのです。それは、地域における社会関係のあり方を再認識する機会だと言えるかもしれません。

2. 学ぶ欲求から教える機会へ
地域の「強み」を可視化する試みとして、〈大学〉という仕組みを考えるとき、まず重要なのは学生(受講生)の確保です。オープンな講座や実習を計画しても、肝心の受講生が集まらなければ意味がないからです。まずは、魅力ある内容で、人びとを迎え入れることが求められます。
じつは、重要なのは、人びとの学ぶ欲求を満たすことばかりではないでしょう。地域に暮らす人びとの属性や能力を熟知し、人びとの教えたい欲求の充足にも目を向ける必要があることに気づきます。ぼくたちのコミュニケーション欲求を満たし、あらたな紐帯を生み出す場として「墨東大学」という場づくりを考えるのであれば、まさにさまざまな問題意識を共有することこそが活動の中心となります。講師から話を聞くだけではなく、(どのようなトピックであっても)じぶんが「語り手」になることに価値が見出されるでしょう。突然、「講師」や「教授」という役割を期待されることに戸惑いはあるかもしれませんが、このプロジェクトをつうじて考える〈大学〉は、共に学ぶ環境として考えてみたいのです。

3. 不特定多数から特定少数へ
地域に根ざし、〈教える=教わる〉という関係性が流動的に変化するような場合には、臨機応変に学習内容・日程の調整が実現することが望ましいと考えられます。墨東大学では、教える側と教わる側がお互いに時間を供出し、コミュニケーションの機会をつくります。講義の内容についても、可能な範囲で即興的な調整や改訂がおこなわれる仕組みが実現できればと思います。墨東大学の講義はアドホックに構成され、受講者のリストさえもが逐次書き換えられているので、〈その時・その場〉のリクエストや関心事(リアルタイム性の高いトピック)に応じて、講義内容やすすめかたが決まるのが自然だと言えるかもしれません。そう、墨東大学の「カリキュラム」のコンセプトは“流し”のようなものです。「あ、きょうは集まり悪いなぁ」「じゃあ、きょうはあの話をお願いします…」

というわけで、お茶を飲みながら、少人数で語るという、理想的な「教室」となりました。リラックスした雰囲気のなかでマジメに話ができるという、贅沢な場だったと思います。この日に話した内容については、もう少し整理してみるつもりです。皆さん、ありがとうございました。

2010年10月21日木曜日

墨東大学について

「墨東大学(ぼくとうだいがく)」は、まちや地域について考えるための仕組みとして、2010年10月に実験的にオープンしました。学校教育法上で定められた正規の大学ではありませんが、「大学」という名前を冠しているとおり、いくつもの講座や実習が提供されます。まちづくりや地域活性をはじめ、さまざまなテーマを介して人と人が出会い、語り合う場所をつくる試みです。今年度いっぱいの期間限定の試みではありますが、できるかぎり単発でその場かぎりのイベントにならないよう、墨東エリアに何度か足をはこぶ(はこばざるをえない)仕組みをデザインしたいと考えています。また、墨東エリアをたんなるイベントのための「会場」として位置づけるのではなく、何らかのかたちで人びととの接点を持ち、(墨東大学というプロジェクトの)成果をまちに還すことも強く意識しています。

まちとの関わりを考える際、「大学」という設えや語り口が役に立つことに気づきました。たとえば入学すると発行される学生証は、「墨東大学」の一員としての意識を高めるだけではなく、ある種のスタンプカードのような機能をもった存在になります。何度か足をはこび、じぶんの学習の進捗を確かめるためのツールになるのです。学生証は、墨東に暮らす人びととの会話のきっかけにもなります。また、「墨東大学」の卒業要件として、全員に卒業制作を課すことによって、最終段階には何らかのかたちで、活動内容を報告する機会も生まれます。

「墨東大学」というプロジェクトは、おもに以下のような考え方にもとづいて、企画・運営されています。

(1) コミュニケーションの力を信じる
まず、私たちは、コミュニケーションの〈きっかけ〉づくりについて考えてみたいと思います。「大学」を模して、出会いの場面や日常のやりとりの仕組みを考えることで、あらためてまちのこと、暮らす人びとのことがわかってくるはずです。「墨東大学」をつうじて提供される講座や実習の内容自体は、もちろん興味ぶかいものばかりです。しかしながら、それぞれの講座がどのような場所で、どのように開講されるか/されたか…という実現に向けての過程に着目することで、「墨東エリア」の特質について、あらたな発見や気づきがあると考えています。

(2) 教えたいという欲求を満たす
「墨東大学」では、さまざまな講座や実習が企画されていますが、誰もが講座を提案し、開講することができます。私たちは、学びたい欲求ばかりでなく、同時に誰かに語りたい、何かを共有したいという想いもあるはずです。近年のネットワーク環境の変化は、誰かとシェアする気持ちを増幅し、また実現する機会を広げているように見えます。つまり、じぶんが日頃考えていること、取り組んでいることを持ち寄り、共有するための場が「墨東大学」なのです。その意味で、学校や教室ということばから連想しがちな、〈教員=学生〉という固定的な関係性は「墨東大学」では想定されていません。

(3) 特定少数の価値
「墨東大学」の講座は、さまざまな意味で自由に、柔軟にデザインされています。決められた校舎や教室はないので、インフォーマルな集いになることが多いのが特徴です。また、基本は少人数です。誰もがのびやかな発想で講座や実習を提案できるので、予期せぬかたちで、時には突然に科目が成り立つこともあります。いずれにせよ、「墨東大学」での活動をつうじて、私たちは、あらためてコミュニケーションや場づくりついて考えることになります。不特定多数の学生たちを想定した、マスプロ的な教育とは対極的な位置にある、いわば「私塾」のようなものです。

「墨東大学」プロジェクトは、「大学」というメタファーを介して地域に接近することによって、地域における人間関係のあり方やコミュニティへの帰属感、多様性・異文化の理解等の可視化を試みるものです。「墨東大学」運営の実践過程を分析・考察し、地域コミュニティのもつホスピタリティや関係変革への志向などを理解するきっかけになることが期待されています。くわしい経過等は、随時、このブログや墨東大学のオフィシャルウェブでお知らせするつもりです。

・墨東大学オフィシャルウェブ http://bokudai.net/
・墨大ブログ(bokudiary) http://bokuto-univ.blogspot.com/

2010年10月20日水曜日

墨東大学・誕生秘話(どうでもいい話)

「墨東大学(ぼくとうだいがく)」が生まれたのは、2010年6月17日(木)のことです。渋谷の某店での集まりが、スタートでした。そこで、岡部大介、加藤文俊、木村健世(50音順)の3人がユニットを組んで、この企画に取り組むことになったのです。(写真:ミーティングでつかったノート)


いろいろあって、具体化するまでにはしばらく時間がかかっているのですが、その後8月23日(月)に「bockt」というユニット名が正式に決定しました。最初は、「墨東」からはじめて「ボクと…」のようなニュアンスで発想し、「bokuto」よりはGackt(いまはGACKTになったらしい)っぽく「bockt」にしようという軽いノリでした。いずれ、BOCKTに名称を変更するかもしれません。

しかし、その後、加藤がいきなり閃いてこじつけ、岡部、木村宛てにメールを送ります。
---------
8月23日(月)19:36

加藤です。
bocktという名称、ムリヤリこじつけました。
beyond organization, community, and knowledge transfer
略して bockt!! (いや、ほんとうに適当です)
つまり、「組織」「コミュニティ」「知識伝達」といった諸々を問い直し、それを乗り越えていくための仕組みとしての「大学」を考える。それを、「僕(たち)と」考えましょう…ということです。
bocktの事業の第1弾が「墨東大学」で、その後、全国各地で「○○大学」を試みる、という感じでしょうか。なんか大風呂敷ですね…。
---------
そのわずか40分後、木村が歓喜のメールを送ります。
---------
8月23日(月)20:14

こんばんは、木村です。
完全に恐れ入りました。
細野晴臣さんを超えるネーミングの帝王だと思いました・・・・
bockt
宜しくお願いいたします。
---------
そして、さらに15分ほどして、岡部が短いメールを送ります。このメールは、もはや、名乗ることさえ省略した、簡潔なメッセージですが、ようやく空欄となっていた「企画者」のスペースが埋まり、企画書が完成することに興奮した様子が伝わってきます。
---------
8月23日(月)20:31

了解しました!bocktで作成します!
---------
こうして、bocktが生まれたのです。さて、何のユニットか…について。これは大学教員とアーチストによる「リサーチ・ユニット」だと考えてください。テイストやアプローチ方法はことなりますが、3人とも、まちを〈現場〉に発想し、実践しています。何らかの「仕掛け」をまちに埋め込んだり、ふだんは気づかない関係性を見えるようにしたり、人との関わりを大切にしています。今回は「墨東まち見世2010」と連係しながら、いまちょっとばかりアツい「墨東エリア」で活動します。
こじづけ…のとおり、「組織」「コミュニティ」「知識伝達」といった概念や実践をふり返りながら、その先にある〈何か〉を見たいと考えています。

くわしくは、随時、このブログや墨東大学のオフィシャルウェブでお知らせするつもりです。どうぞよろしくお願いいたします。

・墨東大学オフィシャルウェブ http://bokudai.net/
・墨大ブログ(bokudiary) http://bokuto-univ.blogspot.com/