2010年12月7日火曜日

講義録:大人の学び論 II(長岡健)

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2010年12月7日(火) 18:30〜20:00
講義名(担当者):大人の学び論Ⅱ(長岡健)
集合場所:墨東大学(京島校舎)
参加人数:8人
内容:私たちが「学ぶ」という言葉を使うとき、そこには「何かを身につけること」という意味が込められていることがほとんどです。しかし、「学ぶ」という活動を「考え方や振る舞い方が変わること」と理解するなら、「知識やスキルを身につけること」だけでなく、「これまでの考え方や振る舞い方を棄てること」=「学習棄却(unlearn)」も意味あることだと言えるでしょう。本講座では、この「学習棄却」という概念を取り上げ、「従来の認識を捨て去ること」や「状況に適応しないこと」の意味、それを実現するためのヒントを探ってみたいと思います。
 なお、墨東大学「大人の学び論Ⅱ」では、「大人の学び論Ⅰ」に引き続き、「教員/受講者」の関係を逆転させた授業運営を行います。今回のテーマである「学習棄却(unlearn)」を中心としながらも、それに限定することなく、「大人の学び」に関する様々なトピックの中から、受講者が「聴きたいこと」をその場で選んでもらい、担当教員が出来る限りそれに応えていく、という授業運営を行います。そして、通常とは異なるこのような授業の経験をもとに、墨東大学での「学び」の意味を参加者全員で探ってみたいと思います。
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 前回の「大人の学び論Ⅰ」に引き続き、「大人の学び論Ⅱ」でも、教員があらかじめ話す内容を決めず、受講者がその場で聴きたい話題に教員が応える即興形式で進めました。当日は、7名(社会人:3名、大学生:4名)の参加がありましたが、大学生の参加者から「フィールドワーク」に関連した話しが出ましたので、お題は「フィールドワークと学び」ということにして、講義を始めました。このテーマは全く予想していなかったのですが、私が日頃感じている「ビジネス・エスノグラフィー批判」のような話しから始めてみました。

 近年、ビジネス関係者、特にマーケティングや商品開発に関わる人々の間で、「エスノグラフィー」や「フィールドワーク」という言葉が話題に上ることが多くなってきたようです。このような現象自体はなかなか興味深いのですが、ビジネス関係者の多くがエスノグラフィーに期待していることと、私がエスノグラフィーについて考えていることの間に、けっして小さくない開きがあることも事実です。ビジネスの文脈では、エスノグラフィーは隠れた消費者の行動や嗜好を明らかにする「魔法の杖」のようなものだされているようです。つまり、エスノグラフィーを「手法」と見なし、「調査対象(者)との関係」において理解しているということです。
 一方、私の方は、他者とかかわることを通じて調査主体が変化していくプロセスとして、エスノグラフィー(ないしはフィールドワーク)を理解しています。もちろん、フィールドワークを通じて何を発見したかを考えることは重要です。でも、その発見は「魔法の杖」によってもたらされたのではなく、調査者自身の「モノの見方」が変化していったことにより、それまでアタリマエに思えていたり、何気なく見過ごしてきたことが、違ったものに見えてきた結果ではないでしょうか。これは、フィールドワークを「学習棄却(unlearn)」のプロセスとして理解することだとも言えるでしょう。
 では、今回の「大人の学び論Ⅱ」での講義体験を、私にとって「墨東大学という場へのフィールドワーク」だと見なしたとき、私の中でどのような「モノの見方」の変化があったのでしょうか。


 フィールドワークでは、「よそ者(ストレンジャー)」の目線で見ることが大切だと言われます。現地の人たちにとってはアタリマエに思えることが、よそ者にとっては摩訶不思議に見える。このギャップを浮き彫りすることがフィールドワークという活動の重要な一部を構成しているということです。
 でも、現地の人々と触れる時間が長くなるにつれ、よそ者の目線は、徐々に現地の人々の目線に近いものとなっていきます。それまで違和感を覚えていたことが徐々にアタリマエになっていくにつれ、現地にいることにある種の心地よさを覚えるようになるものです。そして、この「心地よさ」と引き換えに、フィールドワーカーは「よそ者の目線」を失うことになります。
 前回「大人の学び論Ⅰ」の開始直前、とても緊張している自分がいました。誰が来るかも、どんな時間を過ごすことになるのかも分からず、逃げ出したいような気分もほんの少しだけあったような気がします。でも今回、「大人の学び論Ⅱ」は少し違っていました。もちろん、事前に講義内容を決めない「即興的な講義」ですから、「どんな時間になるのだろうか?」という、落ち着かない気持ちはありましたが、前回とは違い、この気分を楽しもうというゆとりがあったように思います。たった1回参加しただけではありますが、墨東大学の不思議な雰囲気に慣れてしまい、ある種の「心地よさ」を感じるようになったのかもしれません。
 おそらく、前回と同じ場所で「大人の学び論Ⅱ」を開講していたなら、私の感じた「心地よさ」は講義開始後もそのまま続いていたでしょう。でも、今回の開講場所が、前回感じたものとは異なる摩訶不思議な気分を、私にもたらしてくれました。
 今回の開講場所、「墨等大学京島校舎」がまさか商店街の真ん中に位置しているとは、知りませんでした。しかも、道行く人々から数メートルしか距離のない位置から、あたかも買い物で行き交う人々に向かって講義をしているかのような状況になるとは、全く想定外のことです。実際、講義中に何度も道行く人と目が合ってしまいましたが、そのほとんどの人が、「こんなところで何やってんの?」といぶかしそうな表情をしているように私には見えました。心の準備も全くないまま、「よそ者に対する視線」を思い切り浴びせかけられた私は、どう振る舞ったらいいかが分からず、講義をしながらもそのことが気になってしかたがありませんでした。おそらく、私の中では、今回受講者として参加した方々への意識と、道行く人々への意識が半々ぐらいだったような気がします。


 さて、フィールドワークでは「よそ者の目線で見ること」の重要性が指摘されていると、先に述べました。そして、「よそ者の目線で見ること」に私自身の意識が向かっていたことを否定できません。それに対して、今回の体験は、「よそ者に対する視線を浴びること」への意識を喚起するものでした。まだはっきとしたことは言えませんが、フィールドワークを「学習棄却(unlearn)」のプロセスと見なすなら、よそ者として見られている際に覚える何となくの違和感が、私自身の振る舞いを変えていくきっかけになるかもしれません。
 次回の「大人の学び論Ⅲ」まであと50日以上あります。その間、次の「墨東大学という場へのフィールドワーク」がどんな「モノの見方」の変化を私にもたらしてくれるかを楽しみにしつつ、今回の体験についてじっくりと考えてみたいと思います。
(報告:長岡健)

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